素のままに

長野 麻紀子

灼熱

2022.07.10

楕円の窓を覗きこむと、眼下には
ソーダ寒のようなブルーの海がどこまでもひろがっている。
真昼の太陽が煌めいて、水面に映る機体の影はちいさな魚になり、
すいすい気持ちよさげにどこかへと泳いでいく。
カンクーン発ハバナ行きの飛行機は、
ディズニーランドのアトラクションよりよほど刺激的。
シュワシュワしているのは、ソーダではなく、傍の窓。
茶色いガムテープでペタペタと目張り風に補修された飛行機の窓から、
なにやら得体のしれぬ白っぽいモヤのような、煙のようなものが
始終シュウシュウプスプス漏れている。
いくら近距離飛行で高度はそこまで上がらないとしても、
一体全体ガムテープでそんな処置できるものなのか、
とおしりの裏が若干スースーする気がしたが、
離陸してしまってはもはやどうしようもない。

飛行機がランディングすると同時に盛大な拍手が機内にこだました経験は、
あの一回きりだ。
どこかでの試合からの帰り道なのか、長い体躯を折り曲げるようにして
なんとか座席に収めたバスケットボールのナショナルチームの男たちも、
フライトアテンダントたちまでもがほっとしたように拍手していた。
やはり、みんなデンジャラスと思っていたのか。
その後、キューバの街中で、古いアメ車のボンネットから、家の窓、鞄、靴底、
ありとあらゆるものがガムテープで補修されているのを目にすることになった。
なんでもかんでも貼れば直る、もう大丈夫!
というガムテープ信仰はアメリカだけではなかったのだ。
本当は、仲良しなんじゃ。

パスポートにスタンプを押さないハバナの空港の税関は、なんだか厳しくて、
なけなしの梅干しやら、インスタント味噌汁やらの、
お宝の日本食を没収されてしょんぼりだったけれど、
空港で頼んだ一杯のモヒートは、天国のように美味しくて、
まあいっか、と気持ちもゆるゆるに緩んで伸びた。
透明な背の高いガラスコップに、小さな青いライムを絞り入れ、
ミントの葉をたっぷり、粒の荒い薄茶色の砂糖をざらんと加えたら
たんたん潰し、砂糖とミントが程よく馴染んだあたりで
こっくり琥珀色の香り高いラム酒を加え、
最後に氷、炭酸を注いだらできあがり。ホーウ。
あの時の一杯を越えるモヒートには、その後、長らく出逢えていない。

『ブエナビスタ・ソシアルクラブ』を観て、
この音の世界、肌で感じてみたい、とそれだけで飛んでいったキューバで、
いったいなにをしていたのか、とんと思い出せない。
そういえば。
気怠い午後のカフェで隣席に座っていた葉巻工場の支配人夫妻の、
お母さんが一人暮らすというどこかの町の実家へお邪魔してお茶をした。
支配人のおじさんが手配してくれた1日チャーターの古めかしいアメ車タクシーは、サイドミラーがガムテープで補修されていたが、
もはや驚きはしなかった。

名前すら知らない町への道すがら、
大きな樹の木陰に、灼熱の太陽を避けるようにちらほらと女性が佇んでおり、
その足元には、必ず大きなバケツ。あれはなんだろう。
突然、タクシーの運転手は車を路肩に止めて、
やがて大きなバケツを手に戻ってきた。
中にはたっぷりの真っ黄色なマンゴーが山盛り。
売りつけられるのか、ぼったくられるのか、と身を硬くして、
いらないいらない、と身振りで断ると、
運転手は、いや、お金はいらない。ここのは旨いから一緒に食べよう、
とやはり身振りで答えて、
マンゴーのいちばん旨い食べ方はね、こうするんだよ
と、男は先ほどまでハンドルを握っていた太くてゴツゴツした指先で、
ぷっくらしたマンゴーの黄色な腹をやさしげに揉みもみし、
てっぺんのところにカプリ、と噛みついて、
一滴も落とさないようにそこから吸う。

ちゅるちゅると啜りあげる体温のぬるさの完熟マンゴージュースは、
どこまでも甘くねっとり爽やかで、
ちょっと疑ってごめん、と心のなかで詫びながら、
よく見れば、ヤギのようなやさしげな目をした運転手のおじさんに感謝した。

帰りに、数個を土産に持たせてくれて、
ホテルで真似して今度はキンキンに冷やして食べてみたけれど、
やっぱりあのとき車の助手席で食べたぬるい完熟マンゴーの方が、
美味しかった気がした。

早春のある日、ホームセンターのハーブ苗コーナーでミントを見つけた。
イエルバブエナ / モヒートミント ヘミングウェイ
と記されたタグが付いている時点で、買い物籠行き決定。
モヒートの本場キューバで使うミントの種類は、
イエルバブエナなのだと、今頃になって知った。
ペニロイヤルミント、アップルミント、パイナップルミントなど
ミントにも、実に様々な種類と香りがある。
イエルバブエナだけでも何種類もあるらしい。
恐ろしい繁殖力で地植えにしたらば、
そこらじゅうミントの海に飲み込まれてしまうことになるから、
もちろん鉢植えにした。

異様に短かった梅雨が明け、
はや真夏の如き猛暑に襲われる東京の片隅で、
こんもり茂ったミント鉢だけが涼やかに夏本番を待つ。
食卓の上、透ける空の硝子こっぷが、からん、ころん。
とろん、わたしもくうきに溶けていく。