兆しに立つ

クロヌマ タカトシ

平凡な一手

2020.04.02

今日もアトリエへ向かう。春なのに少し寒い。
ストーブに火を入れて、両手を擦り合わせる。
机の上には昨日と同じ形をした像がただ立っている。
それを見て少し嫌になる。
ここがおかしい。ここが彫れてない。ここも。
もう少しいいかと期待して昨日は寝たのに、やはり駄目だ。
あの夜に会っていた像は朝のうちにこっそり出て行ってしまったのだろうか。
首を傾げて天井を仰ぎながらゆっくりと溜息を一つつく。

仕方なくラジオのスイッチを入れて、前掛けの紐を結び、彫刻刀を手に取る。
さあ今日も航海の始まりだ。
舟を少しでも前へ進めなければならない。
僅かに見えるか見えないか、霞んでぼんやりとしている像に
この手で形を与えなければならない。
恐くても、間違えそうでも、思い切って振り下ろせ。
ためらい傷は作るな。

そうやって自分自身を鼓舞して像の前に立つけれど、やはり恐くて固まってしまう。
僕は臆病者なのだ。
だからいつもじっと黙って考えこんでしまう。
おそらく窓の外から不意に中を覗かれたら、どちらが彫像かわからない。
計算したことはないけれど、アトリエにいる一日の中で
手を動かしている時間と固まっている時間とが
半分半分なのではないだろうかと思うことがある。
いや、もしかしたら固まっている時間の方が長いのでは。
これを書きながらも傍らの彫りかけの像を見て、やはり固まっている。

 

 

将棋の棋士は、次に自分の指す一手に対して何時間も考え込むことがある。
僕は将棋が好きで、空いた時間にインターネット中継を見ている。
特に名人戦や竜王戦などの各新聞社が主催するタイトル戦は
熱のこもったトップレベルの対局になることが多く
一局一局の勝敗がその棋士の運命を大きく決めていく大事な戦いだ。
まさにこの一手が勝負を分けるという場面で何を決断するのか。
その決断に対して、自分の指した手に対して、その結果と責任を
棋士は自分で引き受けなければならない。

読むのは自分の手と相手の手。
合わせて交互に直線的に読んでいって30〜40手。
それが何通りも枝分かれしていくと300〜400手に拡がる。
この一手で今まで良かった形勢が悪くなってしまうかもしれない。
ここは受けにまわっておいて相手からの有効な攻めをなくそう。
いや相手の陣形に隙がある今こそ踏み込むべきだ。
しかし踏み込んだものの、攻めの手が途中で途切れてしまったらどうする。
この道を進むべきか。進まざるべきか。
この道の先に何がある。この道は何処へ続いている。

一進一退の思索の時間が続き、やがて駒に手がのびる。
そうやって出された一つの決断は、意外と平凡な一手であったりする。
神の一手などでは決してない。
しかしその思考の航路に僕は輝きを見てしまう。
その一連の決断が美しいと僕は思う。
将棋界の第一人者、羽生善治九段は自身の好きな言葉を聞かれてこう答えている。
運命は勇者に微笑む。

 

 

臆病者へ話を戻そう。
今日も僕は像の前に立って、彫刻刀を持ったまま固まっている。
あと少し肩を彫るべきか。彫らざるべきか。
肩ではなく頭か。頬か。鼻か。唇か。
なんだか漂うこの違和感は何処から来ているのか。
何を削ぎ落とせばいい。もう完成している。
いやそんなことはない。そう思いたいだけだ。
何かが違っている。まだ刃を入れられる。
前にここを彫って上手くいったからここに違いない。
いやこの違和感は前のものとは違う。ここではない。
では何処だ。何処を彫るべきか。

漂泊の時間が終わり、いずれ平凡な一刀が刻まれる。
しばらくは今自分の決めた路を漕いでみるけれど
そのうちにまた固まる時間がやってくる。
僕の日常はこれの繰り返しだ。
木の中にあらかじめ像が見えていて、その周りを彫るだけだ。
なんて言ってみたいものだけれど、その境地にはまったく達していない。
日々迷いの中で小さな決断を積み重ねて、なんとか一つの像に辿り着く。
人の形はしているが、この像は一体何者か。
もちろん僕にはわからない。
しかし、この像を作ることが少しでも舟を前に進めてくれて
僕の想像しえない景色へと運んでくれることを願って
今日もアトリエへ向かう。