みちくさドライブ

松塚 裕子

はらっぱサラダ

2020.03.19

野原をまるごと摘んだみたいな緑の葉を、大きな皿いっぱいにこんもり盛ると、食卓のうえに春の山が現れた。
今日は、ルッコラ、ワサビ菜、香菜、スティックセニョールという茎ブロッコリー。
仕上げに赤芯ダイコンをひらひらと薄切りにして飾る。
ルッコラの花で仕上げ。
なんだか、子どもの頃のままごとみたいだな、と思う。
アンチョビを少し入れて熱々にしたオリーブオイルをジュワっとまわしかけたら、レモンを絞ってわっしわっしとかみしめる。
春の葉っぱ独特のぴりっとした苦みが身体のなかをめぐる。
寒い冬の間に溜めた重たいものを押し流して、ぼんやりと眠っていた細胞に新しい季節がやってきたことを知らせているみたいだ。

深大寺に移り住んで10年になる。
家の周辺は都市農業が盛んで、自転車で少し走れば至る所に畑が広がる。
武蔵野の自然に囲まれた、東京のなかでものんびりしたところだ。
畑の横には無人販売所が併設されているところも多く、旬の野菜をいつでも安価に手に入れることができる。
3か所も回れば、自転車のかごは瞬く間に野菜でいっぱい。
ワンコインでおつりがくる。
週に2回ほど、愛車の自転車の後ろに子どもを乗せて、無人販売所巡りをするのが日課になっている。

3年前に子どもを産んで、生活ががらりと変化した。
日がな一日背中を丸めて工房にこもり、作業に明け暮れていた日々から一転。
日のあるうちはだいたい公園や野原や川で子どもと過ごす。
移り変わる季節とともに姿を変える木々の様子、咲きほこる花々、たくさんの小さな生き物たち。
自転車を走らせれば今まで自分が見過ごしてきた豊かな世界が広がっていて、わたしはこの土地のみせる新しい姿に夢中になった。
無人販売所もそのひとつ。
旬の味がこんなにも豊かに身近にあふれていたことにすら、ぜんぜん気づいていなかった。
一日中作業をして、すっかり疲れ切った体でスーパーに向かうような日々のなかで、もちろんやりがいも充実感もあったけれど、とりこぼしてきたもの、気づけないでいたものごとも多かったのかもしれない。

この土地に移り住んで独立し、仕事を軌道にのせるまではほんとうにあっという間の出来事だった。
ありがたいことに仕事は途切れることはなく、時間も忘れて作り続けた。
経験の浅い自分が自己流のやり方でもって、その早い流れの中を進むことはまるで修行のようでもあったけれど、手を動かし続けることでしか感じることのできない大きな喜びに満たされて、ぐんぐんとスピードを上げて走っていった。
自分で運転していたはずの初心者マークのついた車は、いつのまにかものすごいスピードで走りだしていた。
その疾走感に喜びを感じながらも、そこから振り落とされないよう、心が置いていかれないよう、様々な感情とともに必死にハンドルを握ってきた数年間だったようにも思う。
視界20センチの世界のなかで一日の大半を過ごしてきた私にとって、昼間の太陽のもと広大にひろがる武蔵野の大地は、まるで初めて見る景色のようにきらきらと眩しく映った。

そして、夜とも朝ともいえないような時間から、家族が起きるまでのあいだが土にむかう時間になった。
起きたていちばん、たったひとり静まりかえったなかでろくろのまわる音だけがする。
土に触れるたび、まるでまっさらのきれいな紙に清書しているようだと思う。
こんなにも雑味のない静かな時があったなんて。
40年近くも生きてきて、一日のなかにさえ自分の知らなかった空気をまとう時間があることに驚いた。

見知った土地、過ごしなれた時間、そのすべてと、いま新しく出逢いなおしをしているような不思議な感覚を日々肌で感じている。
自分をとりまく世界のすべては、前よりもずっと親密でやさしくそこに在る。
心を満たす魔法は、どこか遠くではなく、いまここに確かにあるのだなあと思う。

のどかに流れる野川沿いを走りながら、ぬるい風を頬にうける。
鴨も子供も、釣りのおじさんも川ではみな穏やかな顔をしている。
きっともうすぐ桜の季節がやってくる。
前かごいっぱいになった野菜と、後ろで鼻唄をうたう子どもの重みを感じて、ハンドルをぎゅっと握りしめる。
全力疾走の喜びも道草する楽しみも、人生のなかできっと繰り返しやってくる。
その時々の速さでしか見えてこない景色があるだろう。
みずみずしい季節の野菜を食べるように、いまの一瞬を味わい尽くしたい。
うつりゆく季節も、変化する気持ちも、愛しい人の重みも、大切なものはしっかり抱きしめてぜんぶ持ってゆこう。
いまは自転車のスピードですすむ。
えいっとペダルを踏みこんで、今日も春のなかを漕いでゆく。