素のままに

長野 麻紀子

ふしぎないきもの

2020.09.24

林檎のかおりの衣をまとい、
こっくりとろんと琥珀をとかしたような秋がやってきた。
うだるような暑さを抜け出したのはつい先日のことだというのに、
生い茂る空き地の草穂のうえに蜻蛉が羽ばたき、
トカゲは陽だまりにちいさくあくびをする。
全身で伸びをする。
ようやく。冬へと向かう季節がやってきた。
ひかりの海にとけこんで、ただたぷたぷただよう。

冬を越え、春を想う。
庭の時計、緑の針が刻む確かさに、たしかに救われた年だったのだ。
ちいさな自然に励まされ、生かされていることを、いつも以上に知らしめてくれた。
小玉西瓜、大小の胡瓜、斑入りの朝顔、夜顔、
夏じゅう刺すような日差しから守りぬいてくれた緑のカーテンをたたんだら、
土を少し耕して、新鮮なくうきとひかりを奥部に届けて、
種まき、球根の植え付け、堆肥の仕込み。
そっと春へ、ラブレターを送る。

食べられる庭を目指してしまうのは、血筋だろう。
友人の亮子ちゃんなんぞは、ある時みんなで集った河原のバーベキューで、
いきなり魚を素手で捕まえだして、それがまた見事な腕前で、
この人の祖先は、絶対に狩猟民族だったのだろうなあ、
とその場にいた誰もがおもって笑いあった。
わたしの祖先は、たぶん採集民族だったのだろう。
みつけた!ときの、胸の高鳴り。幼いころのいちばんうれしい記憶は、
あけびの山、ひかるきいちごの森、きのこの森、
すべて偶発的な自然の恵みとの邂逅に直結している。

愛でるだけの花には、ながらく薄くしか興味が持てなかったのだけれど、
春先だけは特別。
爆発するような生命のよろこびに満ちた3月、4月は、
花輪で祝福したい。
いま立つ地点の、あしもとの少しだけ先をみつめて、
その支度をする。
それがゆるされているというしあわせ。
ゆるり、たたずむ。
緊張の糸をほどいて、ふかふかの焼きたてパンみたいに深呼吸する。

雨あがり。乾いた風が吹きはじめ、ぶらぶらと散歩に出掛ける。
川沿いの小径は、鬱蒼と繁る木立の天蓋に覆われて、
蔓植物がからみつき、白い花が灯る。
鋭い棘の野ばらに、青く硬い結晶みたいな実がポチリとふくらみかけて、
曼珠沙華が心臓のように咲いている。
椎にクヌギにコナラ、大小様様などんぐりがバラバラバランと落ちてきて、
薄暗がりにピッカリひかり、
つうとひそやかに生えた名も知らぬきのこ。

秋といえば。
とにもかくにもきのこなのだ。
毒も薬も、色も形もさまざまで、眺めているだけでもたのしく飽きない。
どうしてこんな場所に。
きのこはある日突然、偶然の音楽みたいに現れて、
いきものでも人でも、誰かみつけるときもあれば、
ひっそり朽ちて森の滋養に返っていくこともあるだろう。
ふしぎな生命体。

きのこ摘みには先生が必要で、わたしに見分け方を教えてくれたのはユリアーネ。
旧東ドイツのドレスデン近郊の、とびきりちいさくて愛らしい村に育ち、
幼少期から休日ともなれば、家族できのこ摘みをしてきた熟練者の彼女は、
確かな嗅覚で、教え上手、素晴らしい先生であった。

わたしが覚えられたのは一種類。
裏側が緑色で全体ちょっと黄色かかった、ぽてんとしたきのこなのだけれど、
これがまためっぽう美味で、バターソテーよし、パスタによし。
You have mushroom noseとのお墨付きをユ先生にいただいて鼻高々。
ドイツの森まで飛んでいかないと摘めないのが、難点だけども。

きのこのこととなるとユリアーネは、
どこまでも分入ってしまいそうな程の情熱を傾けるあまり、
熱狂した熊のようになってしまう。
チューリンゲンの州都、エアフルトの森を散策した帰路、
あれは多分、偉人の墓かなにかを訪ねたのだとおもうけれど、
一緒に墓場を歩いているときに、ちょっと待った、と猛烈に走っていって、
戻ってきたときには、てのひらにこんもり溢れんばかりに
立派なきのこが鎮座していたのには閉口した。

当然、食べるはめになった。
やたらとりっぱな肉厚きのこの栄養源を考えると、
いかに食いしん坊なわたしでもいささかたじろいでしまったが、
もはや仕方ない、えいやっと飲み込めば、なんのことはない。
ただの滋養たっぷり美味しいきのこソテーに、きのこスープだった。

どんなきのこも一度は食べられる

というのが、畑中先生の口癖だった。
きのこの研究に情熱を傾けておられた先生の生化学の授業は、なにしろ御声がいけない、
ゆったりポクポク歩くような低いトーンが、どうにもこうにもお経のようで、
眠気を誘うこと、あまたある授業のなかでも格別。
毎度のごとく居眠りキツネと化していたわたしは、
授業の終わりがけにはっと目覚めて、冷ややかな視線で罰せられた。
時にはフィールドスタディーと称し、生徒の数より木の数の方が多いという
こんもり茂った森のキャンパスをほうぼう歩き周って、
生えているきのこをレポートするなどというたのしい授業もあって、
そういうときだけは、俄然張り切ってぴょんぴょん飛び回った。
色気を出して、味見したことは一度もない。口にしたが最後かもしれないじゃないか。

どんなきのこも一度は食べられる。死ぬ前には。

ドイツの森できのこ摘みふたたびは、まだしばらくは遠い夢。
やはり、身近な自然のなかにあるきのこを見分けられるようになりたいので、
先生になってくれる人を探すことにしよう。
食べてしまう前に。