トカラ諸島 平島語大辞典 抄

稲垣 尚友

カマヤの風景から

2024.05.05

わたしは、二十代から三十代にかけて、鹿児島県の南部に浮かぶトカラ諸島の中の平島に住んでいました。
都会育ちのわたしですが、島の暮らしに惚れこんでしまい、島の若者の一人として暮らすことを夢みていました。
体力もあり、共同作業は無論のこと、暮らしに必要な魚捕りも、畑仕事も皆に教わりながらやってきました。

そんな心構えはあったのですが、女性たちが任されていたカマヤの仕事には関心が薄かったと、今になって反省しています。
カマヤとは母屋とは別棟に建っている納屋を兼ねた調理場のことです。
都市住宅の台所とは違って、そこにはカマドが据えられているし、近くには食器が収納されている棚があります。
土間には畑から持ち帰った野菜やら、連れ合いが沖で捕ってきた魚も転がっていました。

今年、「平島大事典 トカラ諸島・ 暮らしの中の博物誌」という760項目、77万字の本を上梓しました。
その中から、カマヤの風景を想い出し、ヒナタノオトに展示されている工芸品とどこか関連のある話題を3つ拾って、皆さんにお届けしたいと思います。

しいもん(吸い物)

威儀を正した宴会で最初に口にするのは吸い物です。
客を迎える空間は、オモテの間とナカザリの間の仕切りを外した座敷に、客たちは片仮名のロの字またはコの字型に座ります。
次々と参集する客に、カセイ(加勢)で駆り出された女たちが、角膳をひとりひとりに供える。
皆が集まったころを見はからって、開会の宣言とも言える簡単なあいさつが座敷の主人、あるいは主催者によって行われるのです。

その後、上座で向かいあって座る四人がイザケまつりを終えると、客を迎える当主が、
「シイモンの蓋でも取ってくいやい」
と、座敷の隅々に聞こえるように声をかける。
参集した人たちがいっせいに、各自に配された角膳の上の吸い物椀の蓋を開けて、口にもっていく。
中身は塩味の吸い物で、具は時代とともに変化していますが、昭和四十年代初めのころまでは、素麺が浮いているぐらいの簡単なものでした。
五十年代になると、鳥肉や椎茸も入れられ、カマボコ類も使われるようになりました。
これは、島の土木工事が盛んになり、現金収入をみるようになって、鹿児島市内の商店から食材を取り寄せる財力が身に付いてきたからです。
皆は無言で椀を干し、その後、近くに置いてあるカラカラ(焼酎入れ)から、かたちばかりの少量の焼酎を蓋に注ぎ、それを干す。
これを、ススギと称します。
ススギの焼酎は隣同士で注ぐのが普通ですが、手酌でも儀礼に反しているわけではありません。
この一連の所作が終わって初めて、皆は膝を崩し、口を開く。
それまでは無言であり、キントジ(正座)を崩さない。

同じ「しいもん」でも、島によって内容が異なるのです。
南端の宝島では吸い物が参会者に振る舞われる順番が平島とは違っています。
戦前の昭和十五年の時点では、一同が着席した段階で簡単な挨拶があり、その後に刺身と小皿物(・・・)をつつきながら焼酎を飲み始めるのです。
頃合いを見計って、接待役の者が「廻酒」なるものを上座の方から順次に告いで回ります。
その廻酒というのは、大きな椀に注(そそ)がれた焼酎を参会者が順次頂くのです。
それがすむと「吸物」が出る。吸物のあとに「骨ゆすぎ」と称する二回目の廻酒の椀が廻って来る。
そのとき古老連が古式のお祝いの唄を歌うが、その歌がすむまでは膝をくずしたり、くつろいだ姿勢をとることが許されません。
吸物の中には素麺が山盛にしてあります。
素麺の下には玉子もあれば、豚肉もあるし、蒲鉾もひそめられていました。
「廻酒」とは、平島の「カレヨシ」または「カリユシ」の酒のこと同じあり、日々の安寧や航海の安全を祈願するのです。
海原に四囲を囲まれた島ならではの祈願酒といえましょう。
言うまでもないことですが、「酒」は「芋焼酎」のことです。 

出典:平島大事典 p183

ピーピーどんぶり 

ドンブリの一種です。
別の呼び名に、「しなどんぶり・しなどんぶい(支那丼)」、「しなちゃわん(支那茶碗)」、「テーラどんぶり(平島丼)」などがあります。
ドンブリの口に指先や手のひらを当てて、何周となくこすり続けると、「ピー」という高い共鳴音が鳴り出すのです。
ガラスコップの口に同じような仕草を試みると、簡単に鳴ることは皆さんもご存知のことと思います。
その音を「ピーピー」と表現し、ドンブリの名にしました。
このドンブリは島の西沖に漂流していた船の積載品の一部でした。

明治二十七年のことと言いますから、西暦になおすと一八九四年となり、今から一三〇年前のことになります。
島民が潮見所であるスバタケから西沖を遠望していると、流れ船らしいものを発見しました。
漂流船のことを島では流れ船と言います。
男たちはさっそく沖に出て救助に向かったのですが、乗組員の姿は見当たりませんでした。
猫が一匹帆柱の根元から姿を現しただけです。
風を帆に受けて走る帆船でした。
が、これまで見慣れてきた和式の帆船ではなくて、洋式の風帆船でした。
長い反物を何枚か横につなぎ合わせた「何反帆船」と呼ばれている船ではなく、一枚の帆に風を受けて走る船でした。
船はすでに浸水が始まっていたのですが、島の小さな伝馬船でその帆船をミナトまで曳航しました。
とりあえず積載品を陸揚げしようということになりました。

その一方で中之島の戸長役場に緊急連絡する必要を感じて、山頂から狼煙を上げて知らせました。
そのころはまだ島嶼町村制という行政組織が整っていなかったのです。
島々を統括する戸長が、北隣の中之島にあり、そこに戸長がひとり詰めていました。

流れ船は積載品の陸揚げを完了しないうちに沈没してしまいました。
知らせを受けた中之島の松田平吉戸長が四時間かけて平島に到着しました。
丸木舟に帆を掛けての航行で駆けつけたのは間違いないのでが、屈強な若者を何人か同乗させて、艪(ろ)も併用して急いだのです。
藩政時代のことですが、順風を得られない場合も考慮して、艪を八丁用意した過去もありました。
この時は何丁の櫓を用意していたかは分かりません。

荷揚げ品の詳細なリストが二〇一五年に見つけ出されました。
当時、鹿児島大学埋蔵文化財調査センターの先生であった新里貴之氏が発見者です。
新里氏は十島村の島々の発掘調査をすすめる過程で、平島のピーピーどんぶりと出逢い、ドンブリの追跡調査をすべく、アジア歴史資料センターの史料を漁っているなかで、揚げ荷のリストを見つけたのです。

揚げ荷はかなりな量でした。
衣類、書物、ゲーベル銃などの他に、大量の陶磁器類がありました。
品物の多くは戸長の判断で、丸木舟に積み替えて奄美大島の名瀬に運ばれました。
当時の戸長役場には予算らしきものもなく、貧困に窮していたので、品物を競売に付して、売上金を役場資金にすることを思いついたのです。
はこびきれない荷もあり、陶器茶碗類一九三〇束、手籠入りの良品の陶器が三二八個、箸三千人分、さらに鉄砲六丁は「平島保管分」として置いていきました。
実質は平島の住民に手渡されたようなものだった。

平島では焼き物は各戸に等分に分けられ、自家用の日常食器として使われました。
他島へのみやげ品にもなっています。
箸が異常な量であり、銃を積んでいたことも不思議です。
支那文字で書かれた医学書もありました。

流れ船が発見されたのが新暦の八月三十日なのですが、その前の月の終わりには、日本の艦隊が清国軍艦を攻撃しているのです。
そして翌月の八月朔日に、日本は清国に宣戦布告しています。
一般には日清戦争と呼ばれている戦闘が始まっています。
島の人が流れ船を発見した新暦八月三十日は、日本が清国に宣戦布告してから二十九日目にあたります。

トカラの島々には未だ電信が開通していなかったので、日本と清国との間に険悪な空気が流れているとは誰も知りませんでした。
しかし奄美大島の名瀬にはそのニュースがすでに届いていたかもしれない。
そうであれば、その後の連絡を急いだことだろう。
名瀬に詰めている大島島司は漂流物のリストを作成し、それを鹿児島市に在住している県知事へ送付しています。
流れ船の発見から十二日後にはすでに県知事の知るところとなっていました。
それから先の伝達は早かったようです。
その五日後のには県知事から東京にいる陸軍大臣宛てに、翌日には内務大臣宛に陸揚げ品目リストの写しを送っています。
清国船と考えられる流れ船の現況を緊急に報告する必要を感じたでしょう。
県庁と東京の政府間にはすでに電信が開通していて、最終的には海軍大臣の西郷従道に転送されています。
この大臣は西郷隆盛の実弟です。
発見から二十八日目でした。

そんな慌ただしい動きとは無縁に、平島でピーピーどんぶりが日常の具として使われ始めたのです。
その後破損したり、他島へ土産品として分けたりしたので、現在ではわずかしか島に残っていませんが、手元に所有している人は、宝物として大事に保管しています。

ビイドロ  

これはポルトガル語なのですが、長崎から入って来たコトバのようです。
すでに一六〇〇年前後には使われていますた。
「ビイドロや これも籟(ふきもの) 秋の風」
と与謝野蕪村が歌ったのはそれから百年後でした。
本来は「ガラス」という意味なのですが、島ではガラスの素材を意味していないのです。
窓ガラスを始めとして、ガラス製品に対して使われることはありません。
わたしがこの単語を最後に耳にしたのは、オヨシ小母(バア)の口からでした。
一九七七(昭和五十二)年でしたが、バアが「近ごろはビイドロが多うして、危なか」という警句を発したときが最後でした。
バアが数え年七十三歳の歳祝いを終えた年です。
確かにガラスの破片は危険です。
その破片でケガをする人がいたとしても不思議ではありません。
それでも、ネーシ(女神役)が何かの祀りごとをするときには裸足で出かけるのが常でした。

カグラ(日高宏宅)のヨネマツ小母が日照り続きのある初夏に、水祈祷をするために神衣装に身を包み、潮に浸けて呪力を備えたシオバナを左右に振りながら、廃道になった道を通ってアカミズの水源地に向かったときでした。
神官が御幣を振る仕草に似て、ネーシはシオバナを手にして邪悪な諸々を祓い清めるのです。
地割れの入った田に慈雨がもたらされることを願っての水祈祷を行うために、廃道を水源地目掛けて登って行きました。
新しく車の通れる道が別ルートでできたために、人も通わない荒地になっていて、道沿いの家々の手軽なゴミ捨て場の観がありました。

平島にガラス製品が入ってきたのは昭和三十年代の終わりですが、それまでは、焼酎やその他の液体食品を入れる容器は、奄美大島経由で入ってくる場合は沖縄の壺屋焼きを再利用していました。
反対方向の鹿児島本土からであれば苗代焼でした。
ガラス製の容器は珍品の類に入ります。

そんな環境下で育ったヨネマツバアは、いつもと変わらない足取りで廃道を歩いていました。
バアは最年長のネーシであり、責任感が強い人でしたから、水祈祷を率先して引き受けていた。
神役が通う道は新道ではなく、これまでの道と決まっていました。
このバアよりも一回り若い先のオヨシバアはゴミの中にはガラスの破片が混ざっていることを知っていましたが、ヨネマツバアは知りません。

トカラの南に位置する奄美大島大和村(やまとそん)の大和浜集落にも似たような用例があり、方名でビゾロと呼んでいるのですが、ガラスそのものを指しているのではなく、破片を意味しています。
オヨシバアが口にした「ビードロ」はガラスの破片そのもののことでした。
「ガラスコップ」などというハイカラなコトバ入って来たのはそれから後のことです。

出典:平島大事典 P400

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以下、稲垣早苗 記

共同通信から配信された記事が、全国各地の新聞で掲載になっています。
こちらは京都新聞のもの。
お住いの地の新聞で掲載になったものをご覧いただけましたら幸いです。

福岡県門司市では、ライターの青木紀子さんたちが活動する「椰子舎」による民俗学のつどい「フォークロアの夜」が開かれています。
今年の3月初め、門司の黒田征太郎スタジオで、
「フォークロアの夜 # 3 忘れえぬ島 吐噶喇 Unforgettable Islandー TOKARA Islands」が催され、尚友を囲む会が開かれました。
その機会に、尚友の素朴な?イラストを面白く思われたのか、LINEで「尚さんの平島スタンプ」というのが誕生していました。
添えられたフレーズもくすっと面白いですので、よろしければご覧ください。

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Writer

  • 稲垣 尚友
  • この欄を担当することになりました稲垣尚友です。
    房総半島南端の街・鴨川の山中で竹カゴを編んでおります。
    修行をしたのは熊本県の人吉盆地の奥、市房山のふもとに近い錦町です。
     
    カゴ編みを生業とする前は、トカラ諸島の島々のひとつである平島(たいらじま)に住んでおりました。
    全島を覆うようにして、琉球寒山竹が植わっています。
    島ばかりでなく、あちらこちらと巡っているなかで見つけた仕事が竹細工です。
     
    この連載では10話まで竹かんむりの言葉にまつわる話を「竹かんむり小話」として綴りましたが、ひと結び。

    11話からは、現在執筆、編纂中の「トカラ列島 平島語大辞典」から、竹にまつわるお話をピックアップして掲載していきます。

    「トカラ列島 平島語大辞典」に関心をお持ちの方は、ヒナタノオトまでお問い合わせください。

    主な著作
    平島大事典(弦書房)

    竹細工入門(日貿出版)

    戦場の漂流者 千二百分の一の二等兵(弦書房)

    占領下のトカラ 北緯三十度以南で生きる (弦書房)

    青春彷徨(福音館)

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